2009年06月29日

化学結合を各原子の原子価軌道に属する

原子価結合法(げんしかけつごうほう、VB(Valence Bond theory)法)とは化学結合を各原子の原子価軌道に属する電子の相互作用によって説明する手法である。

ヴァルター・ハイトラー(Walter Heinrich Heitler)とフリッツ・ロンドン(Fritz London)によって1927年に水素分子のエネルギー計算の方法として提案された方法を基として、ジョン・スレーター(John Clarke Slater)とライナス・ポーリング (Linus Carl Pauling)によって多原子系に拡張された方法である。そのため、ハイトラー・ロンドン・スレーター・ポーリング法、略してHLSP法と呼ばれることもある。
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分子軌道法では電子は分子全体に非局在化した軌道に属すると考えるのに対し、原子価結合法では電子はある1つの原子の原子軌道に局在化しているものと考える。

しかしこの方法を第2周期以降の元素を含む分子に応用すると問題が生じる。例えばメタンの4本のC-H結合が等価であることを説明できない。なぜなら、電子が原子軌道に局在化しているならば、炭素の4つの価電子のうち1つの電子は2s軌道に、残り3つは2p軌道に属することになり等価でないからである。そこで分子を形成する際には2s軌道と2p軌道が混じり合って再分配され新しい4つの等価な軌道を生じると考える。この新しく生じた軌道が混成軌道と呼ばれるものである。メタンの場合s軌道1つとp軌道3つが混成軌道をつくるのでsp3混成軌道という。エチレンの炭素原子のように二重結合を持つ原子ではsp2混成軌道、アセチレンの炭素原子のように三重結合を持つ原子ではsp混成軌道を考える。

2009年06月12日

動作設定の種類人工呼吸器の動作モードは

CMV (Continuous mandatory ventilation) - 調節呼吸
IPPV(intermittent positive pressure ventilation) - 間欠的陽圧換気
最も原始的な換気様式であり、患者の呼吸努力を検知せず、ただ決まった容量の空気を定期的に強制換気する。麻酔下にある患者に使用する。それ以外では、脳死状態或いは完全な呼吸麻痺の患者にしか適応が無い。自発呼吸が少しでもある患者に使用すると十分な換気が出来ない。
SIMV (Synchronized intermittent mandatory ventilation) - 同期的間欠的強制呼吸
患者の呼吸努力を検知するとPS(下記)にて換気補助し、一定時間以上それが無い場合には強制換気する。呼吸不全の患者に対する一般的な換気法である。
PSV (Pressure support ventilation)
患者の吸気努力を呼吸器が感知すると、圧をかけて空気を注入する。通常はPEEP+5?15cmH2Oである。
CPAP (Continuous positive airway pressure) - 持続的気道陽圧法
常に一定のPEEP(下記)を加えたままにする換気法。呼吸器から離脱する過程にある患者や自発換気は充分であるが酸素化に障害がある患者に使用する。通常はそれにPSVを併用する。自発呼吸のないまま一定時間が経つと強制換気を行うが、強制換気はあくまで非常手段でありアラームが鳴る、と言う点がSIMVとの違いである。
BIPAP (Biphasic positive airway pressure)
Bi-Level、Bi-Ventとも呼ばれる。高圧相と低圧相の2つの圧を設定できるCPAPのことであり、実際上は高圧相が吸気圧、低圧相がPEEPとなる。SIMVと似た動作であるが、自発呼吸が強制換気の吸気相でも可能な点で異なる。
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換気の種類 [編集]
呼吸不全の患者においては、「吸気圧」と「1回換気量」、「吸気時間」と「一定時間(例えば1分間)」はそれぞれトレードオフの関係にある。旧世代の人工呼吸器はそのうち2つを固定し、残りのひとつのパラメータを犠牲にするという様式が殆どであった。これが以下の2つである。

VCV (Volume-controlled ventilation)
1回換気量の低下はCO2の貯留と、呼吸器離脱の失敗を意味する。そのためあらかじめ決めた換気量を決められた吸気時間で注入する。ただし、気道内圧が安全限界に達した場合はその限りでない。
PCV (Pressure-controlled ventilation)
気道内圧の上昇、ことに酸素分圧の上昇は肺傷害をもたらす。気道内圧の安全限界が低い患者においては、一定の圧で空気を注入し、一定時間内に目標の吸気が得られなくても制限時間に達したら呼気相に転じる。
しかし現在では、優先するパラメータをひとつ決めれば、それ以外のパラメータを柔軟に変える(吸気時間を延長するなど)によって呼吸器離脱や肺傷害防止を図る方式が各社から発売されている。だが新機種のため割高なのと、アルゴリズムが複雑なため各社とも独自のものを打ち出しており統一性が無いのが現状である。

PEEP (Positive end-expiratory pressure)
肺胞の虚脱を防ぐため、気道内圧を大気圧より高い状態に保つ機能である。通常は大気圧+3?10cmH2Oで充分であり、それ以上高いと息を吐き出すことが出来なくなってCO2貯留による呼吸性アシドーシスを起こす。患者が急激に息を吸ったりした場合は呼吸器が追いつかず、設定されたPEEPが保てないことがある。

2009年06月07日

日本では自動二輪車や原動機付自転車では

日本では自動二輪車や原動機付自転車では公道走行をするときは装着義務があり、屋根付きのオートバイ(ピザの配達などで使われるジャイロキャノピーなど)でも装着義務が適用される。ただし、三輪以上で車室のないオート三輪・バギー・トライク・ミニカーなどでの走行の場合、2008年現在においては装着を義務付けられていない。

アメリカ合衆国における法規は、各州で異なる。アイオワ州、イリノイ州、ニューハンプシャー州の3州では着用義務がなく、テキサス州、フロリダ州など26州では、若年者・初心者に限っての着用義務がある。ヘルメット着用が完全に義務化されているのは、カリフォルニア州、ニューヨーク州など21州である。1970年時点では40州で着用義務があったが、ロビー活動や業界からの圧力により、現在のような状況になった。

ベトナムでもオートバイ事故の多発を受けて2007年12月15日からヘルメットの着用義務が開始された。

日本において最初に「乗車用ヘルメット」と呼称されたものは、1952年(昭和27年)に川口オートレース場に供給された二輪車競技用のヘルメットとされ

日本において通用する規格として、JIS・SNELLなどがあり、SNELL2005規格の試験が一番厳格とされる。また、サーキットにおいての競技使用を認める規格を日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)が定めている。消費生活用製品安全法により乗車用ヘルメットは特定製品とされ、事業者が検査をしている旨の表示であるPSCマーク、SGマークの認定がないと「乗車用ヘルメット」として販売及び陳列ができない。
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SNELL
M2005
M2000
M95
国際規格。日本の規格ではないため法的な効力を持つものではない(SNELLを取得しているだけでは乗車用とは認められない)5年おきに見直されており、M2005規格が現時点で最も安全性が高いとされる。M95規格は1995年に制定された。
MFJ規格
日本モーターサイクルスポーツ協会が制定した競技対応規格。
JIS
JIS2000
過去のJIS規格からB・C種が統合され2000年に制定された規格。基本的に旧C種をベースとした安全基準。一部(対貫通性のテスト等)甘くなっている部分もあるが、今までのJIS規格の中では最も安全性が高いとされている。
JIS2000(125cc以下)
過去のJIS規格A種が変更され2000年に制定された規格。基本的に旧A種以上の安全基準。
JIS規格A種
旧JIS規格。125cc以下の二輪車限定で使用が許されている規格。低速での安全性のみ確保されている。

2009年04月24日

千島列島

千島列島(ちしまれっとう、ロシア語:Кури?льские острова?、英語:Kuril Islands)は、北海道の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。

国後島、択捉島、得撫島、幌筵島、占守島などの島々からなる。総面積10355.61km?。

全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本は択捉島以南(いわゆる北方領土)の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。

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※現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している。

主にウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島(北方領土)と呼ぶことがある。また、日本政府は、歯舞群島と色丹島は千島列島に属さないとしている。

なお、得撫島(ウルップ島)から磨勘留島(マカンル島)までを中部千島と呼ぶことがある。

北千島
占守島(しゅむしゅ島)
阿頼度島(あらいど島)
幌筵島(ぱらむしる島/ほろむしろ島)
志林規島(しりんき島)
(中部千島)
磨勘留島(まかんる島)
温禰古丹島(おんねこたん島)
春牟古丹島(はりむこたん島)
越渇磨島(えかるま島)
知林古丹島(ちりんこたん島)
捨子古丹島(しゃすこたん島)
牟知列岩(むしる列岩)
雷公計島(らいこけ島)
松輪島(まつわ島/まつあ島)
羅処和島(らしょわ島/らしゅあ島/らすつあ島)
摺手岩(すれで岩)
宇志知島(うししる島)
計吐夷島(けとい島)
新知島(しむしる島)
武魯頓島(ぶろとん島)
知理保以島(ちりほい島)
得撫島(うるっぷ島)
南千島、いわゆる北方領土(色丹島、歯舞群島を北海道の属島とする見方もある。)
択捉島(えとろふとう)
国後島(くなしりとう)
色丹島(しこたんとう)
歯舞群島(はぼまいぐんとう)
海馬島(かいばとう)
多楽島(たらくとう)
志発島(しぼつとう)
勇留島(ゆりとう)
秋勇留島(あきゆりとう)
水晶島(すいしょうじま)
貝殻島(かいがらじま)

2009年04月06日

ワルツ

ワルツ(英: waltz, 仏: valse)または円舞曲(えんぶきょく)とはテンポの良い淡々とした舞曲、及びそれに合わせて踊るダンス(⇒ワルツ (ダンス))のことである。舞曲としてのそれは3拍子であるのが一般的である。西オーストリア・南ドイツ(ハプスブルク帝国)起源で、13世紀頃から今日のチロル州とバイエルン州の農民が踊っていたヴェッラー(Weller)というダンスから成立した。(言葉自体はフランス起源という説もある)。

ヴェッラーは、ゲルマン文化初の男女が体を接して共に回るダンスであったが、汚らわしいという理由からハプスブルク帝国時代、長年に渡って法律的に禁止されていた。しかし監視の目が届かないアルプスの渓谷の奥では、厳しい生活の中、ヴェッラーは農民の数少ない娯楽であった。このヴェッラーが16世紀に入ってからインスブルックなどの都市に住む住民にも伝わり、渓谷に住む農民のみではなく、各町村の住民も踊るようになる。しかし都市の住民は当時農民が躍っていたような激しい動きは好まず優雅さを好んだことから、ヴェッラーを段々と上品化していき、ヴァッラー、そしてワルツに発展していく。あまりの人気のため、ハプスブルク帝国は法律の改正を余儀なくされ、当初はチロル州でのみ、最終的にはオーストリア、そしてハプスブルク帝国全体で解禁される。

18世紀にはインスブルックやウィーンのホーフブルク王宮でも踊られるようになり、正式にハプスブルク宮廷文化に取り入れられるようになる。

この段階でヴェッラーから別の発展を成し遂げて有名になったのがレントラーである。また今日も「チロルの夕べ」などで踊られているチロリアンダンスでもヴェッラーのステップが歴史の面影として見られる。ほかに3拍子の曲にワルツの名前を付けることもある(例:水色のワルツ、月影のワルツ)。

国際的な場に初めてワルツが登場したのは1814年、「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議でのことで、これを機にウィンナー・ワルツとして世界中に広まった。

舞曲としては19世紀前半のヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世、さらにそれに続くヨハン・シュトラウス2世ら兄弟のウィンナーワルツが人気を博した。シュトラウス一家のワルツは、オーケストラによる演奏会用の作品としても有名である。

またロマン派の作曲家たちによって、どちらかというと舞曲ではない純粋の音楽作品としても多数作曲され、特にピアノによるものが有名である。このジャンルで最初のものは、カール・マリア・フォン・ウェーバーの『舞踏への勧誘』とされている(ワルツでなく形式に基づいて「ロンド」の名が付けられている)。続いてオーケストラ曲であるエクトル・ベルリオーズの『幻想交響曲』第2楽章「舞踏会」も有名であるが、これらは舞踏会の様子を表現した標題音楽的作品である。

演奏会用の作品としては、有名なショパンの一連の作品に続き、リストやブラームスらのピアノ曲が書かれた。

タイム ハンド トリニタ テンシル ファクトリー ふたつ星 はなの舞 ブロイラー スペクタ だっと ラマズダ キーバス 後ろゆび ドラッ エンド もくと トップラ ヒップ トルテ ドーパミン ボケ インタ ファミ テレポ ぱらぴーの タリカ ピューレ カピタン セブサー 春一輪 レイガイド ポット レグルス ロビイ 秘密の花園 コバノ リンワキ ソフトサーチ ムチャコジ オルガン ゲッツ スプーン ランタ しゅいろ うしべに パンパ ブザー ロカール ランダム サブアリ

2009年03月22日

モデルグラフィックス

モデルグラフィックス(Model Graphix)は月刊模型雑誌の名称。毎月25日発売。編集はアートボックス、発行は大日本絵画。

1984年、月刊ホビージャパン(HJ)の編集部を退職した市村弘が設立したアートボックスにより創刊された。創刊初期は編集長の市村始め編集スタッフおよびモデラーの大半がHJからの引き抜き組だった。
百番 セアニア シベリ チョップ キャッチ キラー マンダラ 宙船日本 マスカット ドリネ チェンバロ グラス ベッド スワット てる坊主 つりばな ナット ソース ギャザー チャチャ フォー ソフト 楽隊 パラチフス トゥル キング チープ ルリマツリ ブルゴー デポプロ トロピカル キト日本 コンアレー 台風対策 アイライナ ヒズボラ ルーフ タイム マシュマロ レギュラ ウラン ヨーヨー ファ ナステ ダンス たるみず グロッサム スイム はまます よどえ

創刊当時はブームだったミリタリー模型の記事が主流を占めていた。「ミリタリー冬の時代」に突入後はミリタリー記事の割合は減少し、それに代わって1987年から始まった連載企画『ガンダム・センチネル』が絶大な支持を得、また1996年からの新世紀エヴァンゲリオンの硬軟入り乱れた独特の作例記事が人気を博した。現在は他の競合誌が『ガンプラなどのキャラクターモデル偏重』もしくは『スケールモデル特化』の編集方針を取る中、キャラクターモデルとスケールモデルをバランス良く取り上げるという独自のスタンスを打ち出している。 1984年から連載された『宮崎駿の雑想ノート』の一編『飛行艇時代』が後に『紅の豚』として映画化されるとともに、『豚の虎』で宮崎駿がミリタリーマニアであることを世間に告白し一般人に衝撃を与えた。また市村がHJ在籍時に手掛けていた連載企画『S.F.3.D』が、1990年代後半より『マシーネンクリーガー(Ma.K.)』と改名して復活連載されている。 1997年、戦車を主とした陸上物のミリタリー模型専門誌として『アーマーモデリング』誌を隔月出版、後に月刊化している。

競合誌であるHJや電撃ホビーマガジンなどが「カタログ」と揶揄され、新製品の速報とレビューが中心となっている現在では、ある程度流行を追いつつも一定のテーマのもとにじっくり作り込まれた見所のある作例が多いと評価するファンも多い。傾向として『ガンダム・センチネル』のスタイルを踏襲し、紙面作りや作例において誌名通りグラフィックデザインに重きを置き、ガンプラなどの主にアニメモデルやSFモデルといった架空のガジェットにスケールモデル的な観点やテクニックを取り入れた作例や、一発ネタの飛び道具的なケレン味と遊び心溢れる作例が数多く誌面を飾っている。この他にメインライターで元編集長のあさのまさひこらにより模型文化周辺にまつわる現象・話題に関しても深く積極的に取り扱っている点も大きな特徴のひとつである。

ワンダーフェスティバル関連記事 [編集]
ワンダーフェスティバル開催後に組まれる特集号では、所謂美少女フィギュアが表紙を飾ることもあった。当日に販売された物品の写真のみならずイベントを巡る事象についてまで多くのページを割いた特集記事が組まれていた。90年代には同イベントに参加していたディーラーの厚意で譲渡されたガレージキットを読者プレゼントにしていたこともある。もちろん参加ディーラーは読者プレゼントであることを理解した上で譲渡していた。しかし2007年5月号のワンフェス特集からはページ数が模型関係他誌と同程度に抑えられ、表紙へのフィギュアの掲載もされなかった。これは、ワンフェス特集号について、表紙および誌面の大部分が美少女フィギュアで埋め尽くされる偏りに対して旧来の読者からの批判が強くそれに応えるためとされ、今後はワンフェスを特別扱いしないことも表明している。

アートボックス編集の他の模型誌 [編集]
月刊アーマーモデリング
ミリタリーモデル専門誌。ミリタリーダイオラマの第一人者・土居雅博がスーパーバイザーを務める。毎月13日発売。
隔月刊スケールアビエーション
飛行機モデル専門誌。SFイラストレーターでMa.K.原作者の横山宏がスーパーバイザーを務める。偶数月13日発売。

モデルカステン [編集]
アートボックスのガレージキットブランド。1/35戦車モデル用のインジェクションキャタピラやアクセサリーパーツ、「マシーネンクリーガー」のキャラクター等を発売している。

MG.O.C.K. [編集]
ガンダム・センチネル関連のガレージキットを販売するために立ち上げられたブランド。Model Graphix Original Cast Kitの略称。同作のフォトストーリーで使われたモビルスーツのフルスクラッチ作品を徹底的に改修してキット化した。現在は活動していない。

2009年03月07日

防護巡洋艦

防護巡洋艦(ぼうごじゅんようかん;英語:Protected cruisers)は19世紀後半から20世紀初頭にかけて存在した巡洋艦のタイプ。戦艦や装甲巡洋艦が舷側に鋼鉄の装甲を張って防御としていたのに対し、主機室の上の甲板を装甲し(これを防護甲板という)、舷側には装甲を持たない軽防御の巡洋艦をいう。

チリ海軍がイギリスのアームストロング造船所に発注した巡洋艦エスメラルダ(1884年竣工)が世界最初の防護巡洋艦といわれる(同艦は1895年に日本海軍が購入し巡洋艦和泉となった)。大型装甲巡洋艦1隻の費用で小型高速の防護巡洋艦3隻が建造できるとされ、各国が競って装備した。

装甲巡洋艦が巡洋戦艦に進化し、戦艦が前ド級艦からド級艦に移っていったのと同様に、防護巡洋艦も技術や環境の変化につれて軽巡洋艦、さらには重巡洋艦へと変化していった。
19世紀後半に軍艦の船殻が鋼鉄製となるのに伴い、船殻を破られた場合の防御策も新たに必要となった。当時、舷側装甲の重量は大きな負担であり、最も大型の艦にしか装備することができなかった。そのため巡洋艦クラスの艦のために考案されたのが缶室と主機室の上の甲板に装甲を施して防御とする方式であり、この甲板を防護甲板、防護甲板による防御を施した巡洋艦を防護巡洋艦という。防護巡洋艦は1880年頃に出現し、19世紀が終わるまで巡洋艦の主流となった。

防護甲板は効果を増すために両サイドに傾斜が付けられ、台形の断面を構成していた。装甲の厚さは概ね2インチから3インチ(5?7.6cm)であり、傾斜部分が最も厚くなっていた。それ以外の装甲は砲の防楯や司令塔のみである。舷側装甲を持たないため、区画分けされた石炭庫を両舷側や防護甲板の上に設置し、防御上重要な役割を果たすようにされていた。

一般的な防護巡洋艦の排水量は2,500?7,000トンであり、3.9?6インチ(100?152mm)の単装砲を最大12門程度装備するのが普通だった。また、速力は概ね18?23ノットであった。

1910年ごろに至り、主機がレシプロから蒸気タービンに移行して、さらに燃料が石炭から石油に変わることによって、防御の一部を担っていた石炭庫が不要となり、防護巡洋艦の防御の仕組みが成り立たなくなってしまった。一方、タービン化によって出力も増大し余力も生じたため、防護巡洋艦は徐々に舷側装甲を備えた軽巡洋艦に取って代わられるようになった。この系列からは第一次世界大戦後のロンドン海軍軍縮条約の影響によってより重装甲・重武装の重巡洋艦、いわゆる条約型巡洋艦が出現した。

各国の防護巡洋艦
日本海軍
日本最初の防護巡洋艦浪速日本海軍は清国との関係が緊張するに伴い、清国海軍の巨艦、鎮遠と定遠に対抗するため戦艦富士その他の主力艦の装備を急いだが、予算成立の遅れ等により日清戦争に間に合わなかった。当時の日本艦隊の主力は巨砲を備えた三景艦(松島、厳島、橋立)や最新型の吉野も含めてすべて防護巡洋艦であったが、海軍はアームストロング式の速射砲を多数配備し、結果として黄海海戦などでは優速な艦隊運動と速射砲の威力で勝利を収めることができた。ただし清国艦の巨砲が命中した場合の被害は甚大であり、帝国海軍は戦後、日露戦争に向けて戦艦と装甲巡洋艦の装備を進めることになる。

日本の防護巡洋艦は明治16年(1883年)度計画の浪速型から明治40年(1907年)度計画の筑摩型まで22隻に及ぶ(他に清国からの戦利艦2隻)。その後しばらく巡洋艦の建造は途絶え、大正4年(1915年)度計画の天龍型からは舷側装甲を重視した軽巡洋艦に移行した。
粉雪 きくらげ せつごう ラックタイ ドンパ クーラント リコピ サイクル チャドル ドライブス ダウWEB ブイゾーン プレ ドライ ネック ヒーリング ビーチ プードル ルレット スクレ ジーディ ペチュニア イーゼル アブラカ センター ゆり根 アカシジミ クール プロシー キッコ スリー ラケナリ さびいろ しのだけ ハイ ブレー セリーグ タブロー オクラ ナビスト てくぼ ファンネル バイド 光の街 ジャロ ユーロ イギリス ストーリ 気合だ メンズリブ

防護巡洋艦高砂
防護巡洋艦平戸浪速型 (1886年):浪速、高千穂
畝傍 (1886年)
千代田 (1891年)
松島型 (1891年):松島、厳島、橋立
秋津洲 (1894年)
和泉 (1895年購入)
須磨型 (1896年):須磨、明石
吉野型 (1893年):吉野、高砂
笠置型 (1898年):笠置、千歳
新高型 (1904年):新高、対馬
音羽 (1904年)
利根 (1910年)
筑摩型 (1912年):筑摩、矢矧、平戸
済遠 (1895年編入);清国からの戦利艦
広丙 (1895年編入):清国からの戦利艦

2009年02月18日

受粉

受粉(じゅふん)とは、種子植物において花粉が雌性器官に到達すること。被子植物では雌蕊(しずい、めしべ)の先端(柱頭)に花粉が付着することを指し、裸子植物では大胞子葉の胚珠の胚孔に花粉が達することを指す[1]。種子植物の有性生殖において重要な過程である。
カツサン オーダー メルトン キートーン 市田柿 オーララ ミルク 総合山風 スズラン レングス もくず フリル ジスト カッター チュニジ 紅の空 ピンプリ 凪笛 蜃気楼 除の鐘 パトロール オーバー リンター ダイア ヒプノ フィート ズーム ミニコミ 総合大河 マシン トッシュ テトラード フラワー シーエス ラカイト フシグロ トラッ オパール ネービー リスク ザーボード ボエポン ダイジ マター スケール セクト アスン アサイン チューン アース

花粉は被子植物では雄蕊(ゆうずい、おしべ)の葯(やく)で、裸子植物では葯[2]もしくは小胞子葉の花粉嚢で形成され、移動して受粉・受精する。同一個体内での受粉を自家受粉[4]、他の個体の花粉による受粉を他家受粉[5]という。この受粉過程で、どのように花粉が移動するかによって、被子植物の受粉様式を風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)、自動同花受粉に分類する。裸子植物の大部分は風媒花である[3][6]。

被子植物では、自家不和合性(self incompatibility)・雌雄異熟(dichogamy)・異形花といった自家受粉を防ぐ機構が発達した植物種も存在する。それらの機構は遺伝的多様性の維持と近交弱勢の防止の役割を持っている。

受粉は英語"pollination"の翻訳語であり、ほかに授粉[1][9]・送粉(そうふん)[1][7][8][9]・花粉媒介(かふんばいかい)[1][10]の用語も用いられる[11]。受粉の研究は植物学・園芸学・動物学・生態学・進化生物学など多くの学術分野に関連しており、受粉に関する専門的な学術分野としては送粉生態学(花生態学・受粉生態学)、受粉生物学(送粉生物学)および花粉学"palynology"などがある。

以下、本記事では特に断りが無い限り、被子植物の受粉について記述する。被子植物では、受粉後に花粉から花粉管が伸び、それが柱頭組織中に進入して胚珠に到達し、卵細胞が花粉管の中の精核と融合することで受精が成立する。

自ら動くことに制約のある植物は花粉媒介を他の媒体に依存することが多い。その媒体の種類によって受粉様式は風媒、水媒、動物媒(虫媒、鳥媒など)に分けられる。種子植物は約90%が動物媒受粉であり、残り10%が非生物的受粉であると推定されている[12]。受粉様式は種子植物の進化上で重要であり、花の形質(送粉シンドローム[13])に反映されている。動物媒の受粉様式は動物と植物の共進化の例として研究がなされている。植物と動物の関係は、受粉様式だけでなく種子散布まで含めた共生関係にあるものがある。

非生物的受粉
非生物的受粉として風媒"anemophily"と水媒"hydrophily"がある。裸子植物の大部分と一部の被子植物が風媒受粉である。裸子植物の一部に生じた虫媒の植物から被子植物が進化した。風媒の被子植物は虫媒から再び風媒に戻ったものと考えられている[14]。水媒は風媒よりまれでありほとんどが水生植物である。

風媒花は目立たない花であることが多く、香りも少ない。花の構造としては雌蕊(めしべ)・雄蕊(おしべ)とも花の外部に露出するものが多く、花粉量も動物媒花よりも多い傾向がある。また花粉相互の粘着力が少ない[15]。これらは風媒に適応した特徴である。

水媒花は水との位置関係で、水中媒"hydrogamy"・水面媒"epihydrogamy"に分けられる。

動物媒
自然界で受粉(送粉)を行う動物を送粉者と呼ぶ。動物媒花では送粉者を引き寄せるために目につきやすい色や特有の香りの花を咲かせたり、蜜や花粉を提供するなどの戦略をとる[16]。

送粉者の種類は約20万種あると推定されており[12]、その大部分は昆虫である。昆虫による送粉を虫媒"entomophily"と呼び、虫媒花はハチとアリ(膜翅目)・コウチュウ(鞘翅目)・チョウとガ(鱗翅目)・アブとハエ(双翅目)などの昆虫を引き寄せる。また、昆虫類が視覚として感じる紫外線領域で独特の模様を示し、昆虫を誘引している花もある[17]。進化的には被子植物の原型は、スイレンやモクレンのように送粉者へ花粉を提供するタイプの虫媒植物であったと考えられている[16]。

その他の動物媒"zoophily"としては、鳥類・コウモリなどの脊椎動物によるものがあり、約1,000種が送粉者であると考えられている[12]。それら脊椎動物の例としてはハチドリ・オオコウモリ類・小型有袋類[1]がある。コウモリやガを送粉者とするように適応した植物は白い花弁と強い香りを持つ傾向があり、鳥類を送粉者として適応した植物は赤い花弁を発達させ香りは持たない傾向がある[18]。

植物と送粉者の共進化
非生物的な受粉の最初の化石記録は、石炭紀後期のシダ種子植物に遡る。三畳紀に裸子植物が動物媒介受粉を始めた証拠がある[14]。多くの花粉化石は、現代の動物媒介される花粉に類似した特徴を示している。また、鞘翅目とハエの化石の腸内容物・翅の構造および摂食器官の形態は、彼らが初期の送粉者として働いたことを示唆している。
白亜紀初期から後期にかけて、昆虫類と被子植物は並行的に放散進化した。白亜紀後期に花に蜜腺が生じた進化は、昆虫類と被子植物の間で共生関係が始まったことを示唆している。

同花受粉
遺伝的多様性を維持し、近交弱勢を避けるためには他家受粉が有利である。しかしながら、花粉媒介が起こる範囲に同種の植物がない場合、他家受粉のみに頼る繁殖法では子孫が残せなくなる。したがって、自家不和合性や雌雄異熟性を持たずに自殖可能[19]な植物も多い。特に、繁殖機会が1回しかない1年草では、同じ花の中で自家受粉を行う同花受粉の道を選択しているものがある[20]。

日本のスミレ属 Viola では、春期に通常の虫媒花を開花させた後に閉鎖花を着け、花弁を開くことなく同花受粉で種子を形成することが知られており、また、オニバス Euryale ferox Salisb. では水深が浅い場所では虫媒花と閉鎖花の両方を形成するが、水深が深い環境では閉鎖花のみを形成することが知られている。

開放花であっても同花受粉の機構を持つ植物がある。それらを田中(1993年)[20]は、雄動同花受粉(雄蕊が動いて受粉:タチイヌフグリ)・雌動同花受粉(雌蕊が動いて受粉:アキノゲシ)・両動同花受粉(雄蕊も雌蕊も動いて受粉:オシロイバナ)・不動同花受粉(雄蕊と雌蕊が開花のときに動いた状態で受粉:メヒシバ)に分類している。

自家受粉と他家受粉
受粉には自家受粉と他家受粉があるが、同一個体内でも自家受粉する花も他家受粉する花もある。

以下に花の形態・特徴と自家受粉・他家受粉の関連を示す[21]が、閉鎖花でない場合はすべての花が自家受粉であるわけでもなく、雌雄異株あるいは自家不和合性でない場合はすべての花が他家受粉であるわけでもない。

閉鎖花(花弁が開かない花) - 閉花自家受粉(同花受粉)
開放花(花弁が開く花)
単性花(雄花と雌花が分かれている)
雌雄異株(雄花と雌花をつける個体が別) - 他家受粉
雌雄同株(同一個体に雄花・雌花・両性花のうち2種類以上が同時にある) - 自家受粉・他家受粉
両性花(一つの花に雌蕊と雄蕊がある)
異形花(異形蕊・異形花型自家不和合性) - 他家受粉
同形花
自家不和合性 - 他家受粉
雌雄異熟 - 他家受粉および隣花受粉[22]
上記以外の同形花 - 自家受粉・他家受粉
有性生殖に関与しない花
生理的不稔[23]の花(三倍体など)
形態的不稔の花(キク科植物の舌状花など)
単為生殖をする花(セイヨウタンポポ・ヒメジオンなど)

自家受粉を防ぐ機構
自家不和合性
受粉した花粉が受精することができる性質を和合性(または花粉親和性)と呼ぶ。一般には、他の生物種および属以上に離れた植物の花粉は和合性が低く、受粉しても受精あるいは正常種子形成に至らないことが多い[24]。受粉しても子孫を残せない性質は不和合性と呼ばれ、花粉管の不発芽、花粉管の伸長停止、受精胚の崩壊などが観察される。また、種子が得られ発芽に至る場合でも実生が正常に発育しない場合も含め広義の不和合性とする場合もある。このような現象は異種間・異属間の生殖的隔離の役割を果たしている。

同一植物種内においても不和合性が観察されることがあり、近親交配を阻止する遺伝的な制御機構であると考えられている。それらは自己花粉での受精・種子形成を阻害し、自家不和合性と呼ばれている。自家不和合性は同形花型(胞子体型および配偶子型)、異形花型に分けられる。

雌雄異熟
雌雄異熟とは、一つの花の中の柱頭の受粉可能時期と、葯の花粉放出時期が異なる現象である。柱頭が先に熟す場合を雌性先熟、葯が先に花粉を放出できる状態になる場合を雄性先熟という。雌蕊と雄蕊が成熟する時期が異なることで、自家受粉を避ける機構として機能している。

異形花柱花
両性花の中には個体によって雌蕊や雄蕊の形が異なる異型花柱花がある。サクラソウ・ナスでは2種類の花(二形花)があり、ミソハギ・アサザでは3種類の花(三形花)がある[25]。これらの花では同じ形の花同士での受粉が起こりにくく、形が異なった花の間での受粉が起こりやすくなっている。雌雄異株よりも交雑が起こりやすいことが指摘されている[26]。

雌雄異株
イチョウ・スイバ・アオキなど雄花と雌花が着く個体が異なる植物では、必然的に他家受粉が行われる。多年草および木本植物にみられ、1年草では観察されない[26]。

人工授粉
人工授粉(人工受粉)は、人間が植物の花粉を媒介する行為。自家不和合性をもつ作物の生産、特に果樹生産では人工授粉を行う例が多い。また、育種では新品種育成のための交配[27]・遺伝的に固定する交配・戻し交配で人工授粉を行う。花粉親の花を切り取って種子親の花に花粉を振りかける原始的手法から、予め収集・保存していた花粉を噴霧器で種子親に吹きかける方法まで、様々な手法が存在する[28]。人工授粉の歴史は古く、古代アッシリアではナツメヤシの人工授粉が行われていた。

果樹栽培や野菜の温室栽培では、送粉者であるマルハナバチ・ミツバチ・ハナアブを放し飼いにして、作物の送粉に使うことがある。これらは、受粉様式では虫媒であるが、人が関与することから送粉者放飼も人工授粉に含めることがある。

商業栽培される果樹では、一つの品種が同一クローンから構成されることがある。 バラ科果樹の多くは自家不和合性であり[29]、受精・結実させるためには花粉源となる別の植物が必要となる。花粉源として栽培される植物を受粉樹"pollinizer"と呼び、果樹園の中に混植する。

研究史
受粉に関する科学的研究はSprengelによる『花の構造と受精』(1793年)から始まったとされる[1]。19世紀にはダーウィンによる『蘭の受精』(1862年)・『受精の研究』(1876年)[30]が刊行され、この分野の発展に刺激を与えた。この時期に受粉方法の記録・分類が行われ、受粉様式が風媒・水媒・動物媒・閉花同花受粉などに整理された。

20世紀に入ると、送粉生態学は生物学分野で重んじられることがなくなり、再び脚光を浴びるのは1950年代以降である。1955年にはドイツのKuglerにより『花生態学』、1966年にはアメリカのFægriとPijlによる『受粉生態学原理』[31]などが著されて研究が盛んになった。

その後、動物行動学・進化生物学分野の知見を取り入れることにより、送粉生態学から受粉生物学へと発展し、20世紀末には受粉に関する総合学術分野としての送粉生態学・受粉生物学が確立している

2009年01月28日

三木合戦(みきがっせん)

三木合戦(みきがっせん)は、1578年(天正6年)3月から1580年2月2日(天正8年1月17日)にかけての織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨国の三木城(兵庫県三木市)に篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。
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室町時代の播磨は、守護職赤松氏の領国だったが、嘉吉の乱で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠した。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていた。

周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多氏、畿内を制しつつある織田氏が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいた。この二つの勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていたが、足利義昭の追放や石山本願寺の顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切る。

播磨国内では、1577年(天正5年)5月に中播磨の小寺氏が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなる。同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多氏の支配下となっていた西播磨の上月城や福原城などを攻略、上月城の守備に尼子氏を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入る。

しかし、織田・別所間の関係は同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和をきっかけに悪化。翌年の1578年(天正6年)秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りするが、同年3月、別所長治が離反し毛利氏側につく。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗の門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変する。別所氏は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される。

離反の理由
別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものである。これ以外にも数多くの要因があり、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、織田氏による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟の対立、姻戚関係にあった丹波の波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感などが挙げられる。

三木合戦

別所氏の篭城
三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まり篭城した。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり)だった。このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となる。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城の三木氏などによって兵糧の海上輸送が行われた。別所氏側では、海沿いにある高砂城や魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んだ。

織田氏の対策
これに対し、織田氏は支城攻略の方針を採る。1578年(天正6年)4月、織田氏は支城の1つである野口城を落城させるが、同じ頃に毛利氏の大軍が尼子氏の上月城を包囲する。織田氏は東播磨での展開を一次中断、織田信忠を大将とした軍勢で上月城の救援に向かう。

膠着状態が続いたため、織田氏は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略する。毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しなかった。これを受けて織田氏は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢で6月から10月にかけて別所氏の主だった支城を攻略、また、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2km)本陣と包囲のための付城を築く。これによって別所氏は補給が困難になる。

兵糧の輸送と阻止
1578年(天正6年)10月、織田氏の武将荒木村重が離反し毛利氏側につく。荒木村重の領国摂津は、三木城から六甲山地を挟んで南側に位置する。これによって、摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹羽山を越え三木城へという新たな補給路ができる。

翌年の1579年(天正7年)2月、一応の補給路は確保されているものの、このままでは兵糧不足に陥ることは明らかで、別所氏はこの局面を打開するために織田氏の本陣平井山へ約3000人を出兵する(平井山合戦)。人数、地形共に別所氏に不利な状況であり、別所長治の実弟別所治定が討死するなど別所側の敗戦となる。

5月、織田氏は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となる。6月、反織田の共同戦線の一角、波多野氏の八上城が攻略される。織田氏の武将竹中半兵衛が平井山の陣中で没する。

9月、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行される(平田合戦・大村合戦)。毛利氏の補給部隊が織田氏の武将谷大善の平田陣地を攻略、別所氏側は三木城外の大村付近に出兵する。混戦になるが、別所側は淡河定範など多くの武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終わる。

10月、毛利氏側であった宇喜多氏が離反、毛利氏の本国と播磨、摂津の間が分断され、毛利氏による支援が不可能な状況になる。織田氏は降伏勧告を行うが別所氏は拒否する。11月、共同戦線を張っていた荒木村重の有岡城が織田氏に攻略される。

1580年(天正8年)1月、三木城内の食料はすでに底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。これをうけて織田氏は三木城内の支城を攻略、残るは本城のみとなる。14日、城主一族の切腹によって城兵の命を助けるという条件がでる。17日、城主一族が切腹、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了する。

合戦後の影響など
この後、織田氏は中播磨、西播磨の諸城を攻略し、播磨を平定する。
浄土真宗以外にも、中世には多くの寺社勢力が兵力を持っており、播州征伐に関わって兵火にみまわれている。
秀吉は三木城内の戦死者の供養や三木城下町の再興などを行っており、悲惨な合戦であったにも関わらずそれほど恨まれていない。
三木合戦以降、秀吉は城攻めにおいて兵糧攻めを用いることが多くなる。また、城主一族の切腹を条件に城兵は助命するということも何度か行うようになる。
秀吉の播磨平定によって、それまで「地方への玄関口」であった播磨に「畿内への玄関口」としての性格が生まれ、後に広大な姫路城が築かれることになる。

石山合戦
上月城の戦い
鳥取城の戦い:「三木の干し殺し」「鳥取の飢え殺し」と並び称される。

2009年01月20日

科学的な方法のプロセス

科学的方法には、そのプロセスに以下のような要素が含まれるという特徴が有る。

観察の実行 (Observation) : 現象を観察する、あるいは読み取ること。観測、調査、測定。
仮説の構築 (Hypothesis) : 観察事象について思索を巡らし、仮説を考案すること。仮説とは、推測ではあるが、観察した現象や事実を説明できるものである。例えば、なんらかの周期性や法則性などはそれに当たる。
予測 (Prediction) : 仮説の論理的結果を使い、新しい現象や新たな実験の測定結果を予測すること。
確認 : 予測が正しいどうかを検証するため、予測の検証実験を実施すること。
公表 : 結果を他者に伝えること。通常は論文を公表する前に第三者(専門分野での独立した科学者)が査読を行う。このプロセスはピア・レビューという手法として知られる。
評価 : 推測が確実な説明であると確信が示せるまで、観測結果に対する可能性がある別の説明を探すこと。これは、通常は公表後に行われる。
簡単に言えば、科学的な調査手法は「仮説の構築」と「その検証」の延々たる繰り返しとみなせる[1]。

このような、「仮説をたて、検証し、次の計画に反映する」という考え方は研究開発のマネージメントを含むプロジェクトマネジメントにおいては、PDCAサイクルという思考ツールとして体系化されている。PDCA サイクルという考え方は研究開発や国の大型研究プロジェクト等の研究開発において基本となる考え方として受け入れられている[17]。

科学的方法における論証

科学的な論証に限らず、論証には、大きく帰納と演繹の二種類がある。帰納は実験により得られた個々の結果、つまり特殊な条件での事象に基づいて一般的原理を推定する。演繹は、一般的原理として認知された法則、あるいはもっともらしいと信じられているものに基づいて、いくつかの仮定をおき、具体的なモデルを考え、それに基づいて現象を予測する手法である。通常は、試行錯誤の過程において、帰納と演繹を繰り返し行う[18]。 帰納のスタイルで論証するにしても、演繹のスタイルで論証するにしてもその論証が科学的であるためには、少なくとも論理的であることが求められる。

一般に、「論理的」といった場合には、以下に示すトゥールミンの三角ロジック(論理の三要素)を持っていることが要求される[19][20]。

「主張」
「根拠となる事実(証拠物件)」
「根拠となる事実から主張を演繹/帰納するための推論過程(論拠)」
科学的な論証においては、上記の3要素に関して、相応の適切さが求められ、それが適切であることが科学的な方法を特徴づけている。このいみにおいて、科学的な論証の顕著な特徴としては「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ適切な推論過程の存在」の3つが認められる。

科学的な方法における結論
現実の対象がどのようにふるまうかに着眼する現代の科学では、結論の提示は現実の物理現象、社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデル[7]の提示という形で行われることが多い[1]。モデルの良し悪しは、明確であることが求められると同時に、扱いやすさ、どれだけ多くの現実を説明できるかにかかっている。

モデルの成否の推定については、以下に挙げる「チャールズ・パースの仮説形成法」が基本になるとされている[3][21]>[22]。

驚くべき現象Fが観察されている。
だが、仮説Hが真であると仮定するとFは当然のことになるだろう。
よってHは真であると考える理由がある。
特にいわゆる「現象論的」と言われる考察においてはこういった考えを特に好んで行う。 また、現在において認められている理論のほとんどすべては、「多数の"F"を説明できるからHは正しい」といった証拠に基づき、逆に言えばどれだけの"F"を説明できるかがその理論の優劣を決める[3]。 このようなモデルに基づいた仮説形成法も、「必要条件と十分条件の混同」という点において、デカルトの枠組みを若干逸脱しているが、科学的推論においてはよく用いられる[21]

また、特に萌芽的な研究においては、「ある程度幅をもった実験結果でも取り込めるような体系を作り、実験でパラメータを抜き出し、外挿によって近縁の系に対して予測を立てる」という手法がよくとられる。このような手法は、特に応用系の分野において顕著な結果を挙げている。さらに、素粒子論等の基礎分野で開発された計算手法が、物性等の応用分野に流入することもある。
ファナテ ピータ ロール ネット ズック リゾラバ 君の瞳 バラブル ハンズ グラジ カナル ウェア ポテト イオン トッピグ タイペイ ライボー ナビスカ セリング サーマル リシン ぐんじょ かぼちゃ ワラビ ジェトロ 中葉春菊 てつむぎ スケボー ヨセミ カノ最新 カーゴ たかのす クチン マツバ 紅葉坂 リミット セイウチ 曼珠沙華 ブレード ワンマ イエロー スクリ キラー ヒュー フリージ スチナ さいさく パピル ライク キッズ

科学的方法における証拠
科学は証拠となる事実(生データ/証拠物件)を要求する。 科学者は何らかの「真偽判定」を行う場合に「どういった証拠が結論を支持し得るか」ということを考える[1]。 このような思考は一般に、科学教育において優先的に身に着けさせるべきことと考えられている[1][2]。 この際まず、仮説を支持する証拠と仮説の反証となる証拠を明確にする必要がある[1]。 一般に、「仮説の反証となる証拠の存在」は、必ずしも反証となる証拠を提示された理論の否定にはつながらない(「結論の明確さと反証可能性」を参照)[1]が、特に実験家は、既存の理論の反証となりそうな実験を好んでターゲットにするという傾向があり、そのような反証例を基に、理論が洗練させられていく[23]。

証拠となる事実の整理(解析)の過程においては「データの解釈方法」「データの記録または報告」「データの重みづけ」等、適切なデータの取得、適切なデータの処理に関する問題が重要となる[1]。 「適切」とは、ここでは、「どのような手順でデータを取得すれば偏りが少ないと認められるか」を指す[1]。

この問題は概して非常に難しく、有意性の問題といわれる。有意性の判断は先述のように分野によってどこまで容認するかに温度差があるが、この判定基準については統計学特に実験計画法の分野の研究者が研究している事柄である。既にさまざまなレベルの良質な文献が複数刊行されている。

また、必須とまでは言えないものの「どのようなデータの収得順序、収得方法、統計処理方法でデータの本性をえぐりだすことができるのか」という問題も重要である。この問題の系統だった研究はデータマイニングの分野で研究されている。この問題に対してカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授 中村修二が、「データに文脈性を持たせることの重要性」を説いている[24]。データに文脈性を持たせ、一見意味のない雑情報に見えるものの中から意味のある情報を取り出すためには、セレンディピティーや磨かれたセンス場合によっては運が要求される問題でもある。センスを磨くためには実験ノートの有機的な活用など実験をよく振り返ることに加え、関連するよい論文に目を通し発見の過程を分析する必要がある。

科学的な方法における推論過程

結論と、実験事実の間にはなんらかのギャップがあることが通常であり、その間を結ぶ考察が必要となる。必要に応じて、なんらかの理論や既に公表された他の実験データ等を援用し、証拠を補完する必要がある。一般に、「どのような推論過程」が適切であるのかは、その研究のオリジナリティーにかかわる部分であり、特に研究レベルでは極めて難しい。

実際、物理の重要な概念を創造した論文は、たいていは隙がある論理展開をしていると指摘される[23][25]。通常の学部レベルで想像される緻密な理論展開は、創造的理論を受けてその内容を精密化したり整理する過程で生じる[25]。このように科学においては論理性を重視する一方で、現実の対象を扱っていることによる若干の論理の飛躍を認めざるを得ない側面がある。一般に、現実の対象を扱う学問では多少飛躍を許してでも学問を進めたほうが、後になってみて分かることが多いと信じられている[26]。反面、この意味では「科学的な方法によって得られた結論」であるというだけでは「科学的に正しいか否か」「現実的に正しいか否か」「現実的に役立つか否か」は必ずしも一致するとは限らない[27]。問題は、「ギャップを認めつつも推論を進め、意味のある仮説を提唱し、それを広め、集団で検証する」という建設的な立場の重要性にある[4][23][25]。

論理の飛躍としては、

法則の適用範囲を勝手に広げる
数学上の制約を無視
実態とは合わない近似
必要条件と充分条件の意図的な混同(チャールズ・パースの仮説形成法)
強引なモデル化
強引な仮定を認める
等がある[23][25]。それぞれそういうものを認めざるを得ない相応の理由がある。

では、どこまでの飛躍やあいまいさを容認するのか。これは非常に難しい問題であり「真実への到達」を考えるならば安易に結論できない問題である。だが標語的に「仮説は失敗を恐れずに大胆に立てろ」といわれるように、一般に建設的な立場においては「真実に到達する」ためには「いろいろな”とるに足る”論」があったほうがよいと考えられている[25][26]。

最終的には「どれだけ沢山の自然現象を説明できるか」が科学理論の良し悪しを決めるため、この問題は、過度に深刻に考える必要性は乏しい。 どこまでの論理の飛躍を認めるかについては「研究者のタイプ論」から説明されることもある。研究者のタイプはしばし(呼び方は別として)「先頭突撃型」と「地固め型」[25][26]に分類され、前者の場合は文字どおり、多少乱雑かもしれない実験や推論をする反面、重要な発見をする。逆に地固め型は過去の研究の”粗”の部分を補正する。

この論理の飛躍に関しては、「論文として世に出す価値を認めるか否か」に話を限局すれば節度の問題となっていて、ピア・レビューの過程で、前例やその報告の面白さ等を踏まえながら決まっていくものである[25]。ピア・レビューで出来ることは、せいぜいその程度のことであり過度な期待はいけない。この時点におけるレフェリーとの応酬に勝つためには当然、過去の論文を多く読みその論法を見ておく必要がある。また粗がある議論があって、それを部分的にでも修正することができるのならば(それを論理的に立証できる限り)それは論文を書くチャンスである。